top » 伊能測量応接室 » 伊能測量漫筆

鋸山の日本寺隠居が、忠敬の隠宅を訪問

 測量日記を読んでいて第四次測量の最後のところに、
 「10月12日、白雲、午後房州 日本寺隠居来る。夜測量」
 とあるのを見て、少し驚いた。日本寺は鋸山のお寺で、房総の名刹である。第四次測量の帰着が享和3年10月7日なので、これは祝着を述べに来たに違いない。
 隠居だから先代の住職である。なぜ、忠敬さんには、鋸山の前住職が態々足を運んで、挨拶を述べに来るほどの関係があったのかはわからない。
 桑原隆朝との関係もどんなことがキッカケだったのか、これだけ伊能関係資料が沢山残っているのに、桑原からの手紙は一通もない。故安藤由紀子さんは、無い筈はない、多分、関係者のなかに、桑原との経緯を残したくない人がいて、捨ててしまったのだろう、と推理していたが、日本寺との関係なども資料はない。
 忠敬人脈は意外なところに広がっていたようである。忠敬先生日記のなかの、江戸日記を読むと、数多くの当代の有名人が登場するが、登場しない実力者とも多くの交友があったと思われる。 。

▲このページのトップへ