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蝦夷地測量はニシベツから引き返す

 寛政十二年八月二十五日 朝より八ツ前曇天、八ツ頃雨天。朝五ッ、クスリ(釧路)出立。海岸並新開山道二里カチロコイに至て中食。 それ(より)新開山道並海岸三里程経て八ツ後コンブムイ(昆布森)に着。本宅に止宿、クスリより四里といえど遠し。此大風雨至暁。

 同二十六日 朝より九ツ頃迄薄曇、雲間太陽を測る。八ツ頃より中晴、夜も又同じ。測量。

 同二十七日 朝曇、午前より晴天。朝五ツ前出立。新開山道を行、海岸へ出、又新開山道を行。又、海岸へ出、再び山へ上る所をシヨンデキという所なり。中食、コンブムイより五里二十八町、(六里という)七ツ半ゼンホウジに着。本宅に止宿。此夜測量。同心関谷茂八殿、丹羽金助殿夜に入て着。

 同二十八日 朝曇、四ツ後より雨天。陸地海岸は通路不宜、殊に人足も無之に付アツケシへ渡海の船を申遺し候に付逗留。此日八ツ半頃にアツケシより渡船来たり候え共雨天ゆえ見合。

 結局、測線は此処までとなり、以降、地の果ての天測遂行だけを目的(?)にオホーツク海岸を目指して進むことに。 厚岸湾は測量はしていないが、目視だけで地形が画かれている。図中の青線は間宮林蔵の測線、黒線は最終図に画かれている海岸線を示す。



 同二十九日 朝四ツ半頃迄雨天、その後雨止、空も少し晴気味に相成り候間、中食致し直に乗船、関谷丹羽子とも、海上三里アツケシへ七ツ頃に着船。船中晴暮より曇天。当所詰合御勘定は太田十右衛門殿、御普請役戸田又太夫殿、木津半之丞殿、同居役所此方仮家に止宿。

 同晦日 朝より晴天、大西風、暮合より風減、夜に入り小風。夜八ツ頃迄測量。

 八月朔日 朝より晴天午中太陽を測る。八ツ後より曇る。夜は晴、此日に御役所へ御用状序に江戸へ書状届を願う。丹羽氏は此場所に留る。

 同二日 此日彼岸に入、朝より曇天、夜大風雨至暁、五ツ前出立。入海と川を二里渡り、それより陸を二里行て、ヤブイに到り中食。それより三里ノコベリベツに着、合七里、此所アツケシ持の番屋なり。止宿。関谷氏も同伴。

 八月三日 朝少晴、昼晴曇。朝五ツ前出立。三里余オイナオシにて中食。それより三里程八ツ半頃アンネベツに着。夜晴天測量。番家に止宿。




 同四日 朝より晴天、午中太陽を測る。八ツ後より曇、夜薄曇。此所ネモロ持、ネモロより迎舟を待つ。測器を仕舞。風不宜よし。舟不来、逗留。

 同五日 朝より晴天。午中測量。七ツ過より夜は曇天。此日迎船不来、逗留。

 同六日 朝より晴天。年中太陽を測。七ツ頃ネモロの御詰合ニシベツへ御出役に付、ニシベツより迎船来候に付、諸器仕舞候え共、遅迎に付逗留。夜は少曇る。

 同七日 朝より四ツ頃迄霧深し。それより晴天。朝五ツ後出立。川舟三里余フウレントウ、一里弱。それより草原平地十町ばかり行海岸に出、二十七町余ニシベツに九ツ過に着。仮家に止宿。此所は不残仮家なり。夜晴、測量す。ネモロ御詰合御勘定大嶋栄治郎殿、御普請役井上辰之助殿、同勤方村上治郎右衛門殿、此所へ御出役なり。ネモロへ罷越候儀を伺候所、当時鮭引網最中にてネモロより不残此方へ引越候間、ネモロ会所には人なしに候えば、ネモロより迎船又は送船等にては鮭漁猟にも人少にてこまり候間、ネモロへ罷り越不申、候ても相済候はば、何卒此所にて相済しくれ候様御相談に付、左候はば、当年はネモロは遠測に仕り、此より罷帰可申御挨拶申上げ人足並に渡船の儀を願候所、アツケシヘ迎船を申遺候間、明八日逗留、九日に出立候様被仰候間逗留。八ツ後よりクナシリ島、ネモロその外方位を測る。

 同八日 朝より晴天、此朝御詰合並支配人より飛脚を以アツケシへ我等出立に付迎船の触を出す。此方より先触を出す。

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