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仙台領の松島海岸(日本三景)で海中引き縄


 「同(享和元年八月)二十一日、朝曇る。六つ半前蒲生村出立。湊浜、松が浜、それより菖蒲田浜、花淵、吉田浜、代が崎浜、東宮院

に至る。是より我等は舟にて塩釜へ海上を見る。宗平、秀蔵、慶助は、此の所より海辺を東宮浜を測る。海辺、山越不宜に付、舟にて引き縄を以、測量を成、仙台領海中間数、引縄の初めなり。


 吾等と郡蔵は塩釜村へ七つ前に着。直ちに塩釜明神道路方位を測る。三人の者、夜に入りて着、止宿甚助。此夜曇天不測量。此所より南部領宮古迄先触れを出す」

 「同二十二日、朝より曇る。朝六つ半後塩釜村出立。不残乗船、外に舟二艘を用いて方位を測る。海上長引縄を以、舟続に測、海上至て静なれども尺取らず。七つ頃塩釜松島の堺、都島に至る。それより松島地を測る。松島役人迎船と共に来る。測量残る。七つ後松島に着。宿棟右衛門」

 東日本大震災の被災地域の七ケ浜町から塩釜、松島への測量では、海中引き縄が大幅に取り入れられていた。仙台藩領に対しては幕府勘定奉行から代官経由で、伊能隊がゆくから、お定めの安い賃金の人足提供と案内人を出せ、船手配も、という先触れが出されたが、これに加え、若年寄立花出雲守から江戸の藩邸にも通達され、現地では家老片倉小十郎から領内の向々へ指示がされていた。南部領では海上引き縄は行われていないから、幕府の丁寧な通達が影響したとも考えられる。

 伊能大図をみると、七ケ浜の周囲は海岸を測り、東院浜から引き縄が始まる。翌日の記事を見ると、測量船は二隻で、初日、忠敬・郡蔵は地形を写生しながら塩釜へ先行したことがわかる。海中引縄の具体的な方法は日記ではわからないが、舟二隻では難しいと思う。

 理論上は、発着二つの陸上の目標を決め、2点を結ぶ直線上で、AB二隻で順次縄を張ってゆけばいいのだが、実際的にはなかなか大変だ。最初は、起点に船Aを置き縄端を保持させ、船Bに縄を落としながら目標と結ぶ直線上を縄引をさせればよく、Aから目標を結ぶ線上をBが進めるよう合図するだけでよい。縄が終わったら、Bを固定点として縄を保持し、Aは縄を巻き上げながら進む。全部上げたら、縄端をBに渡して、Aが縄を落としながら目標に向かって進む。進路はBから目標を結ぶ直線に入っていればよい。これを繰り返せば、測量は可能な筈である。

 しかし実験してみると、そう簡単ではない。縄には浮を付けたと思うけど、巻き上げるのは結構大変だ。海の中で船の位置を固定するのはさらに大変である。まさか、碇や竿を使ったとも思えない。遠山の方位を複数観測しながら位置をキープしていたとも思えない。なんとなく船頭の感に頼ったのではないだろうか。

 二十二日、波静かだがはかどらない。松島村の船が迎えにきたが、予定が終わらなかったという気持ちがわかる気がする。このあと、仙台領では海岸の海中引き縄が多くおこなわれているから、技術は向上したと思われる。

 遥か後年の対馬の測量では、海中引き縄の地元史料が残っていて、先縄船、後縄船、中取船、羅針船、札船など数隻で引き縄船団が構成されているが、この辺ではとてもそうはいかないで、隊員の技量でカバーされていたと思う。

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